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profile_e0165365_8594789.jpg僕はこんな人

●時川 真一(ときかわ しんいち)

イラストレーター、調理師。

1966年、茨城県・土浦市生まれ、埼玉県・さいたま市育ち。
和光大学人文学部芸術学科、及びセツ・モードセミナー卒。

 中学〜大学生時代は今で言う「オタク」。スターウォーズやガンダム、ヤマトの世代であり、ビジュアルSFブームの洗礼を受け、当時は特殊メイクアップの世界で働くことを夢見ていた。
大学在学中の1985年、造型仲間とグループ「ガラパゴス」を組み、福生の米軍ハウスをスタジオにしてCMやプロモーションビデオ、映画に登場の怪物や宇宙人、小道具の製作に携わる。しかし、年下のスゴ腕造型マンの仕事ぶりを見ていて挫折!
 1986年、誘いを受け月刊「ドラゴンマガジン」(富士見書房)の立ち上げメンバーとして契約社員の編集者に。SF、ファンタジー映画や演劇、グッズ、イベントなどの取材&執筆、アニメ特撮系人気作家の担当を経験。

profile_e0165365_9512938.jpg 1年間の編集仕事を経験したあと、昼夜逆転生活に馴染めず辞職。その後、画材店のアルバイトを経て、1989年に下北沢のかぼちゃ料理専門店「かぼちゃ亭」に入社。はじめは海外放浪旅資金を貯めようと「飲食店なら食費も浮くし、お金も貯まるだろう」くらいの考えだったが、料理の世界が楽しくなり、2年間働き調理師免許も取得した。この頃、遊びではパンクロックに傾倒し、当時は新宿西口にあった新宿ロフトや渋谷ラ・ママなどによく出かけライブに浸る。1988年の二度目の来日以降何度も足を運んだラモーンズは解散したが今もなお大ファンであり、心の友である。

 1991年、「食」の世界の楽しさを知るとともに食材自体にも目を向けたくなり、いったん埼玉の実家に戻る。八百屋でアルバイトをしてはときどき長めの休みをもらい、佐渡島、沖縄、和歌山などをひとり旅で回り、時に農業体験をしながら「これからどう生きていこうか」と模索した。作家でカヌーイストの野田知佑氏や、椎名誠の著作にも影響され、アウトドアスポーツにも目覚める。ヒッチハイクも初体験。佐渡島で若い女性が運転の車だった。

profile_e0165365_1029471.jpg「包丁一本がんばったンねん!」(晶文社)を読み、著者の橋本憲一氏が営む、京都は百万遍「梁山泊」の存在を知り、「こんなお店で働きたい!」と手紙を出す。後日、なぜか自作の沖縄旅を綴ったイラストルポを持参して(笑)面接を受けた。合格。1993年3月京都に移り、初めての関西一人暮らしをスタート。同時にベスパ125ET3を購入。その後10年間乗る(この京都時代から“トキシン”と呼ばれるようになった)。
 入店当時は大きな構えの新築でリニューアルスタートしたばかり。旦那さん以外は板長とその下に1人しか厨房スタッフがおらず、新入りで入ったにもかかわらず、漬け物、まかない、刻みものほか「地鶏の山椒焼き」など一部メニューも担当。お店は厳しく「あんたの作る物は食事じゃない、こんなんエサや!」と、目の前で女将さんにまかないのおかずをゴミ箱に捨てられたことも。自分が情けなく、大根を外のブロック塀に投げつけたこともあった…。しかし、「あんたのことを思っているからこそ、叱るンや」の女将さんの言葉に涙。

 20代終わりにさしかかり、どうしても心の奥底に引っかかっていた「絵で仕事がしたい」という気持ちが、料理作業漬けで他には何もできないような日々の中、あらわになってきた。旦那さん、女将さんと相談後、1994年春に退社。再び東京に戻り、魚屋と、西荻窪のレストラン「満月洞」のアルバイトをしながら、吉祥寺のアパートの一室で売り込み用のイラストルポ作品を描きためた。

 profile_e0165365_11233673.jpg 1994年の暮れから売り込み開始。アウトドアや子供の頃からの趣味である釣り、料理系が得意ということをアピールポイントに時には自作のパウンドケーキをお土産に雑誌編集部を回った。たまたま、このあたりからバスフィッシングを中心とした釣りブームが起こり始め新雑誌の創刊ラッシュ。その中で月刊「アングラーズクリーク」(現在休刊)に作品を持ち込み、釣りのイラストルポを提案したところ、その場でカラー4ページの連載を命じられる。「トキシンのてなもんや釣行記(フィッシングノート)」のタイトルで川、湖、海と毎月ルアー&フライフィッシングの釣りを2年間連載後、月刊ロッド&リール(地球丸)に移り、今度は「トキシンの危機一髪!」というバスフィッシング釣行記を5年間に渡り連載した。当時バス釣りは芸能人の影響もあり、本当にすごいブームであった。今は落ち着いたが、その頃やられていた編集者の方も多く、「以前、読んでいました」と、最近になってお仕事をいただくこともしばしば(ANAの機内誌「翼の王国」での連載もそうであった)。

 釣りブームも一段落した2002年頃からは、「もっと広い世界の人たちに自分を知ってもらえたら」と、それまでもやってはいたが一般系の分野でのイラストルポやイラストにも力を入れていった。2003年には初めてのホームページも開設。するとこれまでにはあまり関わりのなかった広告関係、企業誌関係、また地方団体などからのご依頼もいただくように。また、単行本執筆のお話も舞い込み、初の自著本「自炊ごはん はじめてBOOK」(実務教育出版)を全ページ描き下ろしで2006年の春に出版できた。

profile_e0165365_12252487.jpg 2007年1月17日(誕生日前夜)、「愛着のある町に住み、そこから自分の世界を発信していきたい」と、住まいであり活動拠点をかって親しんだ中央線の町・西荻窪に移す。現在、地元のタウン誌「西荻丼」にもボランティアスタッフとして参加しながら、旅行やグルメ系を中心に、広く一般分野の仕事を手がけている。
 2009年3月には、自著単行本の第2弾「塩だけだから、美味しい料理」も出版。
 同年10月には初のオールイラストルポガイドブック「東京あんこ案内」を出版。


西荻窪のこと(2011年5月に、沖縄本島へ移住しました)

profile_e0165365_156267.jpg 初めて西荻窪という町を知ったのは、たしか1991年くらい。晶文社発行の単行本「就職しないで生きるには」シリーズにあった、「みんな八百屋になーれ」というヒッピーの流れから日本初の有機野菜を扱う八百屋を始めた「長本兄弟商会」のナモさんこと長本光男氏の本を読み、面白い人がいる町だなぁと意識し始めたのだった。
 その後1994年にイラストレーターになるべく西荻窪の隣駅である吉祥寺に引っ越してきた僕は、アルバイトで「長本〜」の野菜を使う、同じビルの2階にあったレストラン「満月洞」(※)で働き始めた。ここからが僕と西荻窪との関わりのスタートだ。満月洞の仕事を辞めたあとも、客として通ったり、吉祥寺内で西荻窪寄り(東京女子大そば)に移ったりしたので、町との付き合いは続いた。ちなみに駅に出る際にいつも通っていたのが通称「丹波通り」という道。その頃は丹波哲郎の邸宅があったのだ。
 2001年からの5年間は西武線の花小金井という町に暮らしていたため、ほとんど立ち寄ることがなくなっていたが、2006年の暮れに「自分の住む町をテーマに作品を描きたい」と転居を考えた際、自然と頭に「西荻窪」の三文字が浮かび、再びこの町で暮らすことになる。「うん、この町しかない」と。

 この町で僕が一番の魅力に感じているのは、魚屋、肉屋、八百屋、豆腐屋さんなどの個人商店がまだまだ元気なこと。自分にとって愛着が持てるお店の数々があり、そうしたお店の人たちと顔見知りになれ、挨拶を交わせることがうれしい。道を歩いていても、知っている顔から声をかけられること、しばしば。下町っぽいという感じなのだろうか。柔らかな空気が流れ、野良猫の昼寝も様になる町だ。
 イラストレーターという職業柄(というか、僕個人のレトロ趣味?)からビビビときてしまうのは、古本屋や、レトロ系・アンティーク系雑貨屋さん古道具屋さんの多さ。また、昭和の時代から長くやっている喫茶店もあちこちに存在し、のんびりと本を読んだり仕事のアイデアを練ったりと、なんだか妙に落ち着けるスポットとなっている。隣町の吉祥寺と違い大規模なデパートやショッピングモールの存在もないため、週末にどっと人口が増えることもなく、穏やかに過ごせるのもいい。なんというか、町自体がマイペースなんだなぁ。

 住めば住むほど、ジワジワと味が出てきそうな西荻窪の町。このハマリ感は居心地がよすぎて、ときどき怖くなってしまうくらいなのだけど、まだまだこれからもそのおいしさを噛みしめていきたいと思う。

※…現在はバルタザールというお店となっていて、長本兄弟商会を始めたナモさんがいつも接客に当たっている。

西荻窪の町ネタを描きためた「西荻ラブ画報」はこちら
# by tokishin66 | 2008-12-04 23:53 | 僕と西荻窪のこと